プロスキーヤーの三浦豪太氏は
ソチオリンピックで「詳しすぎる解説」として話題になった。
確かに「よくぞそこまで取材を・・」というくらい、各選手の細かい情報を伝えてくれていて
おかげでそれぞれの選手のヒトとナリをそれなりに知ることが出来
私自身あまり興味のなかった雪上競技も、いつの間にかなんとなく見るようになっていた。

解説と言えばマラソンの増田明美さんが浮かんでくる。
彼女の解説には、いつもどこかにランナーへの愛みたいなものが感じられて
聞いていてなんとなくほっこりするものだったように思う。

前述の三浦氏も同様で
その競技そのものと選手に対して、深い愛情とあたたかいまなざしを注いでいる姿勢がうかがわれて
やはり心地のいいものだった。

さて、大好きなフィギュアスケート。
フィギュアにおいても、もちろん皆愛溢れる素敵な解説者ばかりではあるのだが・・。
フィギュアは言わずと知れた「採点方式の競技」で
「より速く・より高く・より強く」の記録のみが勝敗を決めるのではなく
いわゆる「芸術点」に相当する部分が成績に大きく関わってくる。
ということはつまりフィギュアは「競技」であると同時に「芸術」でもあるのだろう(愛すべきフィギュアスケーター・町田くんの言葉ではないが・・)。
フィギュアスケートにおける勝負の、やっかいなところであり、楽しいところでもあるように思う。
そんなフィギュアスケートの中継で
ジャンプやスビン、ステップの出来・不出来や、加点・減点の理由
中継では伝わりにくいスケートそのもののスピードやテクニックの正確さなど
技術についてのわかりやすい解説が入るのは、私のようなフィギュアド素人のファンにとっては誠にありかたいかぎりなのだが
たまに
そのプログラムがいかにドラマチックで感動的であるか、などを
豊富なボキャブラリーを使ってやたらと饒舌に説明したり
「今しゃべらないでー!」と言いたくなるような、曲のもっとも劇的な部分で
ダラダラと(失礼m(__)m!)話し続けている解説者やアナウンサーがいて
いささか(いや、かなり)イライラしてしまう。
映画や舞台を観ている時
隣でぐちゃぐちゃ解説をされたらたまったものではないだろう。
フィギュアスケートは確かに「競技」ではあるか
ド素人のファンにしてみれば、映画の一作品を観ているような気分も多分にある。
ワガママな希望のようだが
技術的・専門的な解説はともかく
感性で「感じて」観る部分については
観る側に任せてもらえないかな~と思う。
そのギャグの何がどうして面白いかを解説されてはギャグとしての意味がないように
フィギュアスケートの芸術性を
のちに評論・感想として語るのならともかく
演じている最中に、平行して「言葉で」伝えられてはたまらない。
テレビでは副音声で解説を消せるが、録画ではそうもいかない。
そして「何度でも観たいほど好きなプログラム」だからこそ録画をしているのであって
つまり好きであればあるほど「永久保存版」になり
「永久保存版」=「録画」=消せない解説付き、ということになり
なんとも残念な気がしてならない。