間近にせまった普通部名取試験。
稽古、稽古でお弟子さんのNさん奮闘中!
ブログ
ルンルン~(古すぎか・・)。
いい踊りを拝見してきた。
なんだかうれしくなってしまう。
いい踊りの時は
地方の唄や語りと立ち方の踊りがピタリと寄り添い
お互いがお互いをジャマすることなく
且つ生き生きとお互いの存在感を誇らしげに主張している。
踊りとは別の次元で地方の音が耳に入ってくる時
たいていは何かが腑に落ちない、と感じている。
地方のための立ち方でもなく
立ち方のための地方でもなく
お互いがごく自然に
そして心地よさそうにそこにいられる
そんな舞台に巡り合うことの幸せ。
カンパのような。
カンパのような愛情。
隣近所から少しずつお惣菜をおすそわけしてもらって
テーブルの上をいっぱいにしているような
1足す1は2、だから
だからとりあえずいいよね、とでもいうような
そんな愛情。
生きるために必要最低限の愛情の規定量というのがあって
その規定量を
メジャーカップで計りながら埋めて安心しているような
そんな貧しくてバカバカしい愛情。
求む!晴れ女、晴れ男!!
以前も書いたのだが
私は傘嫌いの雨女。
そしてお弟子さんのNさんも
強力な雨女。
したがって二人で行動する時は
たいてい雨に見舞われる。
しかもちょっとやそっとの雨じゃなく
どしゃぶりってやつだ。
今日もNさんと一緒に出かける用があり
またまた降られるんじゃないか・・と危惧していたところ
降られる、どころのさわぎじゃなく
台風に来られてしまった・・。
着物、びしょびしょになっちゃったよー。
どなたか二人の外出にお付き合いいただける
これでもかこれでもかってくらいの
年季の入った晴れ女、晴れ男の方
いらっしゃいませんかー!?
長生き。
伯母から譲り受けた着物を仕立て直して着ている。
着物は寿命が長い。
何度でも生まれ変わり
過去の主の思い出とともに
新しい主人の体をやさしく包んでくれる。
ハチとハンカチ。
若柳公子さんに
ハチ似の猫の絵が描かれたハンカチをいただいたのですが
絵のポーズとそっくりのハチの写真があったことを思い出し
くらべてみました。
ほら・・ね!?
ハチのほうがちょっとスマートかな。
グッドタイミング。
怒り、哀しみ、不安、不満、妬み、嫌悪、などなど
負の感情をちょっとでも心の内に抱えながら家の中をウロウロしていると
まことにいいタイミングで
ハチにうしろから〈ニャア〉と声をかけられることがある。
ハッと我にかえって振り返ると
そういう時のハチは決まって不思議そうな顔をしている(ように見える)。
猫飼いの方ならご理解いただけると思うのだが
飼い主は自分の飼い猫が何を言わんとしているのか
その鳴き方でだいたいはキャッチできる(と思っている)。
ハチのその不思議そうな鳴き声を翻訳するとしたら
〈なんか変なものが君のまわりに見えるよー〉ではないか、と思う。
負のオーラを撒き散らしながら
その自らのオーラで窒息しそうになっている私の姿は
ヤツにはさぞ不気味なものに見えるのではあるまいか。
飼い主の大いなる勘違いと思い込みで
もしかしたらただ単に
〈おなかすいたー〉とか
〈あそぼー〉とか
その程度のことを言っているのかもしれないが
鳴き声のあまりに絶妙なタイミングに
そんなことを考えたりする。
今週の猫川柳・2。
今週の猫川柳は
我が家のハチが私に言いたいことを代弁しているかのような一句。
かまうのが
愛だと思われ
大迷惑。
今週の猫川柳。
今週の猫川柳は
猫のもっとも猫らしい可愛さがバッチリ伝わってきて楽しい。
モデルの猫がハチ似ということもあって見るたび思わずフフッ笑ってしまう。
パパが呼ぶ
ますます行って
やるものか
ポスターと着物。
湘南新宿ラインに乗っていたら
隣を走る山手線の車体全面に
先日公開された映画〈シュレック〉のキャラクター達が描かれていた。
宣伝のための〈シュレック〉の山手線ジャックなのだろう。
そういえは随分前に
GAPにジャックされた山手線に乗り合わせたことがある。
私はゲイリー・シニーズという俳優のファンなのだが
その年彼はGAPのイメージキャラクターになっていて
山手線の中は隅から隅までゲイリーのポスターだらけだった。
乗り込んだ瞬間私は歓喜のあまり叫びそうになったのだが
そこはグッと我慢しおとなしく着席した。
が、しだいに自分の降車駅が迫ってくると
今度はどうしてもそのポスターが欲しくなり
降りる瞬間に一枚ひっぱがして(失礼!)逃げようかと
かなり真剣に悩んだ。
結局かろうじてその行為を踏みとどまらせたものは
自分は今着物を着ていて
まがりなりにも楚々と(かどうかはかなり怪しいが)ふるまっているのだから、という思いだった。
やはり着物は
女性がよりたおやかであろうとする自らの思いを触発するもの
〈かん
けーねーよ(関係ないよ)〉のノリを抑止するもの
つまり〈恥じらい〉を思い出させてくれるものになりえることがあるのかもしれない。
ところで
ではジーパンTシャツだったらやったのか、と言われると答えづらい。
やっぱ犯罪なんですよね、ポスター持ってっちゃうっていうのは・・きっと。
存在の行方。
亡くなってしまった誰かのことを思う。
たとえば理解しあえないまま永遠の別れをすることになってしまった母のこと。
たとえば可愛くてしょうがなかったペットのこと。
その命が確かにここに存在していたことを忘れずにいる。
誰かが誰かのことを思うたび
胸のうちでいとおしむたび
その命の温度が上がるような気がする。
長い長い時が流れて
そこに存在したはずの命を誰も思い出さない日が来たとき
その命はどこにいくのだろう?
・・・などという思いは今生きているものの奢りだろうか。
お別れ。
家元先生のご本葬。
お別れを申し上げてきました。
梅雨を忘れてしまったかのような強い日差しが
本願寺を照りつけた一日。
madamとお食事。
今日はこのブログにたまにコメントを寄せてくださるmadamとお食事をご一緒させていただきました。
〈華やか〉という形容詞はこの人のためにこそある、と断言できる程
madamがそこにいるだけでバァーっとまわりが明るくなります。
同じ女性としてかくありたい、と思ってしまう
私の目標とする先輩です。
Sさん、リサイタル間近。
ポール・ニューマンだったか誰だったか
部屋のドアを開けるシーンの撮影で
ポケットからキーを取出し鍵穴に差し込む際
あえて利き腕ではないほうの手を使ったそうな。
おぼつかないほうの手で繊細な作業をするというのは
たまらなくセクシーに見えるから、ということらしいが
わかるような気がする。
さてお弟子さんのSさんは
最近この〈利き腕じゃないほうの手〉を使う振りに苦労しているようである。
日本舞踊の場合は
〈おぼつかなさがセクシー〉などとは言ってもらえないのだから
稽古あるのみ、だろう。
ところでSさんは芸大出身の声楽家で
もうすぐ初のリサイタルを開催することになっている。
普段はどちらかというと物静かで落ち着いた雰囲気のある人で
会話する声も決して大きくはない(が、内容はやたら面白い。余談だが。)。
この人のどこにオーケストラピットを突き抜けて客席までストレートに響いてくるあの声量が秘められているのだろう・・と思ってしまう。
私はリサイタル当日どうしても都合がつかず
まったくもって残念ながら伺うことができないのだが
S
さんのことだから
きっときっとお客様の心に届く素敵なリサイタルにするにちがいない。
Sさん、どうぞ体調を万全に整えてがんばってくださいね
そして自らもリサイタルを楽しんできてください。
梅雨はどこへやら。
吹き替え。
友人が映画の主人公の吹き替えをやったと聞きさっそく観てみました。
彼が吹き替えをやっていると知らなければ(いや知ってても)絶対にその友人の声とはわからない。
声をツールにしてさまざまな感情表現をするのが声優さんなのでしょうが
本当にすごいなぁと改めて思ってしまいました。
私達舞踊家にとっては
声優さんでいうところの《声》に相当するものが《踊り》なのですが
その《踊り》を思いのまま使いこなして(?)
各演目に描かれたさまざまな登場人物のさまざまな人生を生きることができたら
めちゃめちゃ楽しいんですが
未熟者の私にはこれがなかなか難しい・・。
ちなみにその映画のタイトルは〈デス・パズル〉。
主人公の刑事の声が友人のもの。
新作コーナーに並んでます。ビデオ屋さんで捜してみてください。
ゲスト。
以前お稽古にいらしてて
今は結婚して大阪にお住まいのYさんが
生後10ヵ月の坊やを連れて
久々に稽古場に遊びにいらっしゃいました。
坊やのH君はイケメンでかつ人見知りしないタイプ。
もう可愛くて可愛くて
私はデレデレのメロメロ。
(一緒に写真に写っている)お弟子さんのKさんとYさんに
《先生、そろそろ冷静になって、お稽古モードに戻ってくださいね。》と言われて
やっと我にかえりました。
H君と・・。
梅雨入り。
今日関東も梅雨入り。
気象庁の宣言どおり朝から雨が降り続いている。
CDもラジオもテレビも
音の出るものはすべて消して
雨の音に耳をかたむけてみる。
少し寂しげな暖かみと落ち着きで満たされていく。
私は傘を持ち歩くのがうっとうしくてしかたがないと思っているので
朝起きて雨模様だったりすると本当にがっかりしてしまうのだが
雨そのものが嫌いなわけでは決してない。
在宅している時の雨はなんとも心地いい。
あじさい。
あじさいが満開。
おおぶりの手鞠のようなまあるい花をあちこちで見かける。
子供時代を過ごした実家に
あじさいが群生していたのを思い出す。
小学校時代一番仲がよかったお友達が花好きで
彼女は教室の花瓶の花が枯れると
自宅の庭に咲く四季折々の花を切って持ってきた。
そして花瓶の水をかえたり根きりをしたり・・と実にマメにその花の世話をしながら
朝のホームルーム前の時間を楽しそうに過ごしていた。
私はかたわらでそんな彼女を見ながら
なんて女の子らしい女の子なんだろう・・と子供ながらしみじみ思っていた。
私の実家の庭では
父の趣味であるサボテンがハバをきかせていて
冬の昼下がりにはその中に入ってポカポカに暖まりながら読書をすることができたサボテン用の温室が
庭の半分以上を占めていた。
キンシャチと呼ばれる私の頭の2倍以上はある大きなサボテンを
わざわざ遠方から鑑賞に来る客人もいたように記憶している。
あとは桜や松といった樹木で庭はほぼ満杯になっていて
花々が咲いていられるスペースはあまりなかったように思う。
そんな中
毎年初夏の頃に
なると庭の隅のほうで唯一あじさいが元気に主張していた。
ある日母に頼んでそのあじさいを切ってもらい
新聞紙につつんで学校に持っていった。
お友達とそのあじさいを花瓶にいけながら
なんとなく自分も女の子らしい女の子になれた気がしてうれしかった。
あじさいを見ると
花瓶が置かれていた教室の窓辺や
雨に潤った実家の庭を思い出す。
ハチのワードローブ。
犬ネコに洋服を着せたり靴を履かせたりするのはいかがなものか、という話で知人と盛り上がった。
私もその知人も基本的には反対派だ。
で、笑ってしまったのが
〈犬ネコはほっといたって(毛が抜けたりはえたりすることで)自分でちゃんと衣替えするんだから~。〉という知人の言葉。
そうか、犬ネコのあのイデタチは人間でいうところの裸だと思ってたけど
あれはヤツラなりのコスチュームだったのか・・
で、デザインやカラーこそ替わらないものの
ちゃんと季節ごとに
厚手、薄手、合いものと着替えているわけだ。
ということはハチは飼い主に似てモノトーン好き、ということで
ヤツのクローゼットには厚さの違う白黒の服がどっさり入っているにちがいない。
で、隅の方にはチビの頃に着ていた小さいサイズの服がまとめて置かれてたりするのだろう。
さらに言えば
クローンでもないかぎりまったく同じ模様の犬ネコというのはまずいない。
ということはヤツラは皆世界に一枚しかない自分だけのオーダーメイド服を着ていることになる。
しかも人間であれば痩せたり太ったりするたびに
ちょっとウエストがきつかったりゆるかったり、の服を着ていることもあるが
ヤツラはいつどんな時でもジャストフィット。
見上げたものだ。
もっともハチの場合は
いつもいつもジャストフィットの服を用意するのがめんどくさいのか
成猫になって以来常に5キロの体重を維持しているが。
最近体重オーバー気味で
微妙に着物の袖が短くなった(二の腕や背中に少しでも脂肪がつくと袖がその分とられるんですよ~)ように感じる飼い主のほうが
見習わなきゃね・・。
迷子。
何かからいつもはぐれてしまっている気がする。
子供のころからずっとあるこの感覚。
かくれんぼ1・どこ?
かくれんぼ2・見つけたっっ!
五月の花火!?
ノマディック美術館。
お台場のノマディック美術館で開催されている
グレゴリー・コルベールの《ashes and snow》に行ってきました。
最高。
なぜかたまらなくなつかしい。
命の最もプリミティブな部分を揺さぶられるような感覚。
宇宙に存在するあらゆる命をいとおしみ
その命と同化する愉悦感は
《祈り》と同義語なのかもしれません。
訃報。
23日、家元先生が亡くなられた。
今日が密葬。
朝から泣いているような雨が降り続いている。
バディ君。
私が以前住んでいた街にある薬局屋さんのアイドル犬、
バディ君です。
アメリカン・ピット・ブルの10才の男の子。
今日久しぶりに再会しました。
相変わらずかわいぃぃぃぃぃぃ。
見かけはちょっと恐そうだけど(って言うか人面犬!?)
めちゃめちゃ甘えんぼ。
久々に私に会うというので
昨日お風呂に入ってきたそうな。
石けんのいい匂いがしたおめかしバディ君
いっぱい遊んで
いっぱいイタズラして
泥だらけになってたって
大好ききだよ。
隣の芝生。
隣の芝生は青く見える、と言うが
〈うちより青くていいなぁ~〉と羨んだり羨まれたりしているうちがハナだと思う。
芝生をより青く育てるための
その家その家それぞれの努力や苦労などは
外からは窺い知ることができないものだし
また多少なりとも知ることができたところで
理解できるものでもないだろう。
理解できない部分を都合のいい憶測と偏見で埋め
トンチンカンなジャッジメントを押しつけられるのは不愉快極まりない。
隣の芝生の青さの理由を探ろうとも思わないし
我が家の貧しい芝生がいささかなりとも青く見える瞬間があったにしても
その青さのために払う犠牲や努力を理解してほしいとも思わない。
言いたいのは
理解できないことを理解できないまま置いておく程度の礼儀と謙虚さを
持っていたいということだ。
人の生き方はそれぞれ。
自分とは違う生き方を
自分の生き方から得た価値観のみでジャッジしたあげく
そのジャッジメントを携えてドカドカと隣人の芝生に立ち入ってくるあの厚顔さはどこからくるのか。
だからどれほど近くても永遠に〈隣人〉で〈友人〉にはなれないのかもしれない。