『死んでもいい』。

随分前に読んだ漫画だったか、小説だったかに、いまだに忘れられないストーリーがある。

日本にやってきたばかりのある外国人の男性が、日本の女性と恋に落ちる。
彼女に日本語を教えてもらいながら愛を育んでいたそんなある日
彼は『日本語で「最高に愛してる」はなんて言うんだい?』と彼女に訊く。彼女はしばらく考えて『「(君のためなら)死んでもいい」って言うのよ』と答える。
しばらくたった頃
彼が突然病(だったか交通事故だったか)に倒れる。
もう助からないと覚った彼は
病院のベッドで彼女の手を握りしめながら最期に『死んでもいいよ…』と言い残す。
あまりにも切なく残酷な愛の告白に彼女は泣き狂う、というストーリーなのだが。

例えばハチが後ろ足で立って両手で私の足にしがみつくようにして甘えてくる時
私はよく『なぁに?ハッチなぁに?』と言ってハチを抱き上げる。
この『なぁに?』には
『何かご用ですか?』の意味の他に
『大好きだよ』『可愛いね』という気持ちが確実に込められている。
つまり私たちは普段字面が持つ意味以外のさまざまな気持ちをその言葉に込めて会話している。
『あなたが嫌いだ』『I hate you 』と言いながら
『I love you 』という愛の告白をしていることだってある。
そうなってくると、会話(書面ではなくあくまで会話)における言葉というのは単純な「音」でしかなく
極論を言えば好きとか嫌いとか痛いとか楽しいとか、少なくとも五感あたりに関する会話くらいは例えば「擬音」でも充分成立するのではないか、と思ったりする。
そう言えば学生の頃、英語劇のエチュードで
10人の人それぞれに、アルファベット1つのみを声に出して自分の感情を伝えてみよう、というものがあった。
字面を追うだけの上っ面な台詞回しではなく
そこに在るさまざまな背景や感情を解って芝居をしてほしい、という意味で
それ自体なんの意味も持たない無機質・最短のアルファベットに自分の気持ちを載せて相手に投げ掛ける、という稽古だったのだろう。

以前にも似たようなことを書いたが
あぁ、素敵だな、と思う人の踊りやダンスには
差し出したその手、振り返ったその佇まいそれだけにも
造形美としての技術的な美しさ以上の「何か」が漂っていたりする。
字面だけの会話、つまり形だけの踊りではなく
そこに何か大切なもの・大切な心が宿る踊りを踊る人は本当に素敵だな、と思う。
日頃あんなにもたくさんの気持ちを(時にはめんどくさいくらい複雑でややこしい感情まで)言葉にのせて
当たり前のように生活しているのに
踊りとなるとまだまだ不自由で
上滑りのような解釈しかできなかったり
逆に考えすぎてがんじがらめになったりする自分をつくづく修行が足りないなぁ…と思う。

コメントを残す

*