見返り美男。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
見返り美男。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
北品川駅は京浜急行の駅の中でもっとも乗降客が少なく
人目につきにくいことから、特殊詐欺のお金の受け渡し場所として、犯人側から指定されることが多いそうな。
そこでその防止策として、北品川駅に注意喚起のポスターがお目見えしたのだが
そのポスターが「おもしろい!」ということで話題になっている。
その文言が
「多額の現金をお持ちで、息子さんやお孫さんと、北品川駅でお待ち合わせのお客様!!伝言がございますので、駅事務室へお越しいただき、駅係員にお声掛けください!」
というもの。
なるほど!!
「気をつけて」ではスルーしてしまいそうだが
「伝言があるから」と言われれば、ほぼ確実に立ち止まるように思う。
そういえば動物園の看板の話。
ライオンや虎などが展示されている檻の前では
見物のお客様にむけて
「危険ですから手を入れないでください」という看板をよく見かける。
が、この類の看板が、大阪あたりでは若干様相が変わるそうな。
看板の文言はひと言
「噛みます」。
間違っても手を入れようとは思わない。
無駄なく、確実に意図を具現化させる。
一発必中、の文言に脱帽してしまった。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
昨夜の大雨が嘘のように上がったピーカンの某地で
今日はドラマの所作指導のお仕事です。
放映日など決まりましたらまたこちらのブログでもお知らせしますので、ぜひご覧ください。
撮影場所の庭に「泰山木」という木が植わっていました。
木蓮に似た花が、私の手のひら以上の大きさ。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
以前も書いたが、私は1年365日夢を見る。
フルカラー、五感付き。
なのでいつも夢の中で一人生(ひとじんせい)生きているかのようで
朝目覚めた時は、だいたい心身ともに疲れている(ぐったりか、心地よくか、はともかく)。
物心ついた時からずっとそうなので
のちに世の中には夢を見ない、または見ても覚えていない人がいると知り、心底驚いてしまった。
私は小さい頃(も)、自分が所属するコミュニティーの情報収集にアンテナを張れるような鋭敏なタイプではなく
ただひたすら自分の世界にぼ〜っとい(られ)るような子供だった。
何かコトを始めると、少なくともなにがしかの結果や完成形を見るまでとにかく黙々とやり続け
それを特に苦とも思わず
それなりに自分の世界を楽しんでいたように思う。
ただ、その有益性の有無にについてはまったく考えが及ばないので
たいていはどうでもいいようなくだらないことばかりではあった。
そんなおバカな子供にも、長ずるにつれて少しずつ知恵と社会性が備わり
入れ替わるようにして「自分の世界で黙々と」というのはなりをひそめていった。
良くも悪くもそれが大人になるということだったのだろう、と思う。
が、最近、もしあのまま、使い回しの知恵や社会性で押しならされるれることなく成長していたら、どうなっていたのかな…などと妄想したりする。
まあ、私のことだからほぼ間違いなくただのハタ迷惑な大人にしかならなかっただろうが
「ひとんちはどうなのか」「人様はどうしているのか」など、指の先ほども思いを巡らすことのないバランスの悪さ、というのは
極めればときにとんでもない独自性や壮大なパワーを生み出す才能となりえるのではないか、とも思う。
極めきれない凡庸さゆえの今の自分なのだが
確実に残りの人生のほうが少なくなってきた今
そもそも自分のものさしでは測りえないだろう人様の価値観に対して
もっと無頓着でもいいのかなぁ、などと思ったりもする。
これ以上無頓着になられては迷惑千万、という身近な声が聞こえてきそうな考えではあるが…。
ところで梅雨。
私は出かける時にさしていた傘を、雨がやんだ帰宅時に無事持って帰れたためしがほとんどない。
まったくもってお恥ずかしい話だが
どうしたら傘の記憶を晴れた帰宅時まで持続できるのか
人様はどうしているのか
不思議でならない雨の季節。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
「マンハッタナーズ」というネコのイラストでお馴染み、ニューヨーク在住のイラストレーター・久下貴史さんのカレンダーを毎年利用している。
随分前の話になるが、久下さんの帰国中に某書店でサイン会が開催されることになった。
そちら系のイベントにはまったくベクトルのない私だったが
飼い猫の写真を持参すると、その猫のイラストも描いてくれる、という企画に惹かれ
当時飼っていた猫・ハチくんの写真をにぎりしめ
私にしては珍しく(というか初めて)イベント会場に出かけていった。
ところがそういうイベントに慣れてない者のあさはかさ、開催時間に合わせて出向いたら
先着〇〇名様で、とっくに締め切られてしまっていた。
人気のイラストレーターなのだからちょっと考えればわかりそうなものなのたが
自分のアホさ加減に呆然と立ち尽くしていると
そんなに広くないサイン会場の奥から、久下さんとファンの方の会話が聞こえてきた。
久下さんがお客様の話にニコニコ顔でうなずきながら、一枚一枚その方の猫の絵を描いてさしあげている。
特にパーテーションとかで区切られてもいなかったので
サイン会参加は無理でも、久下さんの描く絵は割と近くで見ることができた。
するとどの絵もあまりに可愛くて可愛くて
そしてそれぞれのファンの方とその飼い猫くんとのエピソードも、ちゃんと絵のどこかに反映されていて
もう参加とかできなくてもいいから、そこでずーっと久下さんの描く絵を見ていたくなってしまった。
そんな私の(たぶん客観的にはちょっとヤバい)様子を見ていた係のおじさんがコソッと話しかけてきて
「今だったら最後尾に並んじゃっても大丈夫だから」と(誠にズルくありがたい)指南をしてくれた。
私は即あたりまえのような顔をして列のいちばん後ろについたのだが
ズルくて優しいおじさんは、それを見て見ないふりをしてくれた。
そんなおじさんの粋な(?)はからいがあって、めでたくサイン会の最後の客として久下さんの前に座った私は
持参した写真を見てもらいながら、ハチくんの生い立ち(生まれたてホヤホヤで兄弟3匹と一緒にビニール袋に入れられ、母親の胎盤ごと捨てられていたこと)や、うちに来ることになった経緯を話すと
久下さんはハチくんの絵を描きながら「ハチくんは幸せになれたね」とおっしゃってくださった。
「はい」とシンプルに応えればいいものを
その時なぜか私の口をついて出たのは「私が幸せ!」という言葉だった。
久下さんは一瞬「あ!」という表情を浮かべたあと、クスクスっと笑って
ハチくんとその横で幸せそうに笑っている私の絵を仕上げてくださった。
私は今でもたまにこの時の自分を思い出す。
今の銀次くんもそうだが、ハチくんがうちに来たことで少しでも幸せを感じてくれていたとしたら
私にとってこんな嬉しいことはない。
銀次くんやハチくんがあられもない姿で無防備に爆睡していたりすると
心がふんわりときれいな丸にふくらんでいくような感覚がわきあがってくる。
苦境の猫を預かって幸せにして「あげて」いるつもりが
実は幸せをもらっているのはいつもいつも飼い主の私のほうなんだな、と思う。
まだ日本舞踊家としては駆け出しの頃
亡くなられた尊敬するある先生にお稽古で言っていただいたことを思い出す。
「あなたが舞台の上で見てないものは、お客様の誰も見ることはできない。あなたが舞台の上で信じないことは、お客様の誰も信じない。迷ってはダメ、もっと信じなさい、もっと愛しなさい。でないとあなたの踊りがかわいそうです。あなたの踊りが泣いているのが私には見えます。」
当時わかったようでいてどこかぼんやりと受け止めていたように思うが
時が経って
やっとこの言葉の意味が腑に落ちるようになってきた。
上手い・下手の問題はともかく
自分なりに、ぎりぎりまで魂を注ぐようにして向きあえた踊りなら
きっと踊りそのものが踊られたがるはず。
少なくとも「下手くそだけど、まぁ付き合ってやるか」くらいは思ってくれるだろう。
踊られたがっている踊りの心を感じられたなら
舞踊家としてこんなに幸せなことはない。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
最近のコメント