以前も書いたが、私は1年365日夢を見る。
フルカラー、五感付き。
なのでいつも夢の中で一人生(ひとじんせい)生きているかのようで
朝目覚めた時は、だいたい心身ともに疲れている(ぐったりか、心地よくか、はともかく)。
物心ついた時からずっとそうなので
のちに世の中には夢を見ない、または見ても覚えていない人がいると知り、心底驚いてしまった。
私は小さい頃(も)、自分が所属するコミュニティーの情報収集にアンテナを張れるような鋭敏なタイプではなく
ただひたすら自分の世界にぼ〜っとい(られ)るような子供だった。
何かコトを始めると、少なくともなにがしかの結果や完成形を見るまでとにかく黙々とやり続け
それを特に苦とも思わず
それなりに自分の世界を楽しんでいたように思う。
ただ、その有益性の有無にについてはまったく考えが及ばないので
たいていはどうでもいいようなくだらないことばかりではあった。
そんなおバカな子供にも、長ずるにつれて少しずつ知恵と社会性が備わり
入れ替わるようにして「自分の世界で黙々と」というのはなりをひそめていった。
良くも悪くもそれが大人になるということだったのだろう、と思う。
が、最近、もしあのまま、使い回しの知恵や社会性で押しならされるれることなく成長していたら、どうなっていたのかな…などと妄想したりする。
まあ、私のことだからほぼ間違いなくただのハタ迷惑な大人にしかならなかっただろうが
「ひとんちはどうなのか」「人様はどうしているのか」など、指の先ほども思いを巡らすことのないバランスの悪さ、というのは
極めればときにとんでもない独自性や壮大なパワーを生み出す才能となりえるのではないか、とも思う。
極めきれない凡庸さゆえの今の自分なのだが
確実に残りの人生のほうが少なくなってきた今
そもそも自分のものさしでは測りえないだろう人様の価値観に対して
もっと無頓着でもいいのかなぁ、などと思ったりもする。
これ以上無頓着になられては迷惑千万、という身近な声が聞こえてきそうな考えではあるが…。
ところで梅雨。
私は出かける時にさしていた傘を、雨がやんだ帰宅時に無事持って帰れたためしがほとんどない。
まったくもってお恥ずかしい話だが
どうしたら傘の記憶を晴れた帰宅時まで持続できるのか
人様はどうしているのか
不思議でならない雨の季節。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
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