桜の頃に。

亡くなった母の夢を見た。
私にしてはめずらしく内容を覚えてないが
寂しそうにしている母がいた。

最期まで親子としてしっくりと折り合うことのなかった母だった。
私が何をどれ位どう感じて日々過ごしていたのか、興味も関心も持たない母だったが
それゆえ私も到底母という人を理解できなかった。

が、長い時が経ってふと
母は興味も関心も持たなかった、のではなく、持てなかった、のではないか、と思ったりもする。
うまく言えないが、母は思考や理屈よりも感覚や感情(のみ)で生きていたような人で
母には母の心の葛藤や苦悩があって
心の整理がつかない日々の連続だったのだろうと思う。
ただ、その葛藤や苦悩の原因を分析して解決する、という回路が自分のなかに存在しなかったがために
もっとも身近にいた娘に自らの苦悩をぶつけるか
ただ為す術も武器も持たないままあきらめていくしかなかったのかな、とも思う。
ぶつけている、とか、あきらめている、とかの自覚すらないままに。
良くも悪くもあまりに無防備な生まれたての赤ん坊、みたいな人だったのかもしれない。
赤ん坊は泣けばたいてい回り中の大人が飛んでくるが
母のそばにはいったいどれくらい飛んできてくれる人がいたのだろうか。
そもそも母の叫びは回りに届いていたのだろうか。
母の心の痛みに耳を傾け、寄り添ってくれる人がひとりでもいたら、母も私も違う人生を送ったのだろうか。

なんだか母が随分大変な人生を送ったかのような文面になってしまったが
母は母でそれなりに幸せな人生だったのだろう、と思いたい私もいて
いまだ母とのわだかまりを解決できずにいる心の狭い私は
すでに母よりも長く生きてしまっている。

何を言いたいのか、とりとめのない話になったが
母が逝った桜咲き誇るこの時期は
生前の母のどうしようもない孤独を思う。

 

コメントを残す

*