なんでも知っている。

なんの苦労もなく、おもしろおかしく人生を生きているように見える人であっても
その人が自分のうちに何を抱え、あるいは抱えていないか
本当のところは本人以外わかるはずもない。
逆に端から見れば大変な苦労をしているように見えても
意外に本人はそうは感じていなかったりすることだってあるだろう。
以前も書いたが
隣の芝生はどうしたって隣の芝生でしかない。
仮にその隣の芝生が青く見える瞬間があったとしても
その青々とした芝生のために
隣人が払っているかもしれない(または払っていないかもしれない)犠牲や努力について
たかが隣り合った程度の他人がどれほど知り得るものだろうか。
知り得ないものを知り得ないものとして認識しようとしない傲慢さには
いささか閉口してしまう。


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