フジTV・木曜夜10時
土屋太鳳さん主演
【やんごとなき一族】
第二話は明日放映。
見ましょう〜!!
https://www.fujitv.co.jp/yangoto/introduction/
フジTV・木曜夜10時
土屋太鳳さん主演
【やんごとなき一族】
第二話は明日放映。
見ましょう〜!!
https://www.fujitv.co.jp/yangoto/introduction/
夜は東京の真冬並みに冷え込みます。
しかも屋外でのナイター撮影。
防寒をしっかりしていざ出陣。
まずカイロは必携。
和装コートにマフラー。
今回はその上にさらに衣装部さん特製「着物用ホンチョ」もお借りしました。
風を通さない素材で、裏側には10枚ほどカイロを貼ってます。
風邪をひくこともなく、無事帰京できそうです。
昨夜荷造りをしていたら
いつの間にかちゃっかり銀次くんが収まってました。
一緒に行きたかったのかな?
でも、君はお留守番だよ。
よく見るとおしりがなんとなくハート型。
いろいろはみ出してます。
本人的には納得しているのか…??
亡くなった母の夢を見た。
私にしてはめずらしく内容を覚えてないが
寂しそうにしている母がいた。
最期まで親子としてしっくりと折り合うことのなかった母だった。
私が何をどれ位どう感じて日々過ごしていたのか、興味も関心も持たない母だったが
それゆえ私も到底母という人を理解できなかった。
が、長い時が経ってふと
母は興味も関心も持たなかった、のではなく、持てなかった、のではないか、と思ったりもする。
うまく言えないが、母は思考や理屈よりも感覚や感情(のみ)で生きていたような人で
母には母の心の葛藤や苦悩があって
心の整理がつかない日々の連続だったのだろうと思う。
ただ、その葛藤や苦悩の原因を分析して解決する、という回路が自分のなかに存在しなかったがために
もっとも身近にいた娘に自らの苦悩をぶつけるか
ただ為す術も武器も持たないままあきらめていくしかなかったのかな、とも思う。
ぶつけている、とか、あきらめている、とかの自覚すらないままに。
良くも悪くもあまりに無防備な生まれたての赤ん坊、みたいな人だったのかもしれない。
赤ん坊は泣けばたいてい回り中の大人が飛んでくるが
母のそばにはいったいどれくらい飛んできてくれる人がいたのだろうか。
そもそも母の叫びは回りに届いていたのだろうか。
母の心の痛みに耳を傾け、寄り添ってくれる人がひとりでもいたら、母も私も違う人生を送ったのだろうか。
なんだか母が随分大変な人生を送ったかのような文面になってしまったが
母は母でそれなりに幸せな人生だったのだろう、と思いたい私もいて
いまだ母とのわだかまりを解決できずにいる心の狭い私は
すでに母よりも長く生きてしまっている。
何を言いたいのか、とりとめのない話になったが
母が逝った桜咲き誇るこの時期は
生前の母のどうしようもない孤独を思う。
本日、満開。
リビングの窓から見えるお隣さんとの間の塀は
どこぞの猫ちゃんのお散歩コースになっているようです。
本日も塀を通っていつものお出かけ。
銀次くんがめっちゃ真剣にお見送りしてました。
もしかしてお散歩猫ちゃんは女のコなのかな?
銀次くん、残念だけどその恋は実らないと思うよ〜💧💧。
最近留守がちで極端に在宅時間が短い私に対するストライキなのか
呼んでも無視
口をきかない
私以外の家族だけを出迎える
抱っこしてもプイッと離れて2階に駆け上がる
などなど…
ちょっと(かなり)泣きたくなるくらいのスネスネ攻撃を仕掛けてきます…。
銀次くんは今の家に引っ越してきてからすぐにコロナに突入したので、「皆ずっと在宅」が当たり前、というふうに刷り込まれてしまったようです。
寂しいよね、銀次くん。
…というよりこんな不当で理不尽な扱いは許しがたい、かな。
家にいるときはいっぱいいっぱい一緒に遊ぶから、ご機嫌直してね〜💦💦。
撮影所でちょっと早めのランチ。
感染症拡大防止のため、基本黙食、レストランの席もスクール形式になっています。
クランクアップまでの3ヶ月、毎朝体調報告をし、定期的なPCR検査を受け
コロナにかからないよう、持ち込まないよう、細心の注意を払い
免疫力をマックスに保ちながらのお仕事です。
置物化。
東京が再び大雪。
雪で凍った駅の階段を用心しつつ降りながら
病で早世した友人のことを思い出す。
友人、といっても10歳ほど先輩で
人生の紆余曲折を乗り越え、某会社の社長にまで上りつめた、日本舞踊とは縁もゆかりもないバリバリのビジネスマン。
日々を楽しむことが上手で
向上心と情愛にあふれた、とても愉快な人だった。
彼の愛読書は徒然草で、ある時その中の「高名の木登り」について話してくれたことがあった。
ある木登りの名人が弟子に高い木に登らせて枝を切らせていた。
とても危険だと思える高さの時は何も言わなかったのだが
屋根の高さくらいまで降りてきたところで「落ちるなよ。気をつけて降りろよ。」と声をかけた。
「これくらいの高さになればそれほど危険はない。なぜわざわざこのタイミングで声をかけたのか?」と問われた名人は
「目がくらむような高さにいる時は登っている本人自身が怖いと思っている。そのときは何も言いません。けがは、もう安全だ、と思ったところになってするものです。」と答えた。
彼はこの教訓を社長として一個人として
いつも心に留めるようにしていると言っていた(そのわりに私の知っている一個人の部分に限って言えばどこか抜けているところもあって、そこがまたご愛嬌でもあったのだが)。
また「横断歩道を渡る時、青だから安心、は間違い。交通事故は、信号なんかかんけーねーというクレイジーなノリの人や、信号を遵守する能力のない人のところで起きる。青の時こそ気をつけるんだよー。」
とも言っていた。
どれも、九州生まれでウインタースポーツをまったくやらず、雪に不慣れな私のためにあるような教訓だな、と思いながら
階段の最後の3段をソロリソロリと降りてみる。
「努力をするのは当たり前。天才っていうのは、努力の仕方を知ってる人のことなんだよー。」とも言っていた。
そもそもの能力のなさにくわえて、ピンボケかつ無駄な努力をグズグズしてしまうタイプの私には、いろんな意味で考えさせられる言葉だなぁ…などと思う。
雪が降り続くこんな日は
心の中で今も生き続けてくれている、大切な友人の存在を感じる。
出先からの帰途、夕方5時にもかかわらずまだ空が明るい。
いつの間にか日が長くなってたんだなぁ、と気づく。
そういえば、入門したての頃はあきらかに着物に着「られて」いる感のあった弟子が
稽古を重ねていくうちに、いつの間にか自分の体格や雰囲気にあった素敵な着物姿を披露してくれるようになっていて
それどころか
たとえば挨拶をするとか、人様に何か物を手渡すとか
着物でのなにげないしぐさがとても美しく、かつ、理にかなったものになっていたりする。
たぶん本人は無意識なんだろうな、と思うが
この「無意識に」というのはとても大切なことで
それだけ自分の中で「着物でいること」が咀嚼できている、と言える。
師匠としては
日が長くなったなぁ、の「いつの間にか」よりも
何倍もうれしい「いつの間にか」だな、と思う。
自慢のおヒゲ。
撮影所のウエルカムゲートにいるゴジラくんは私とそんなに身長もかわらず
ご機嫌次第ではシッポで遊んでくれそうな雰囲気もあるちょっと可愛いゴジラくんなのですが
ビルの壁一面に描かれたほうのゴジラくんはさすがのド迫力。
隣のスーパーのビルと比べると大きさがわかるかな。
リアルゴジラくんからするとこれでもちっちゃめなんでしょうが。
今日も今日とて名優達を見守り続けるゴジラくん、ルックスは怖いけど、健気です。
WOWOWオリジナルドラマ
【にんげんこわい】が
2月6日より放送・配信されます。
全5話。
私は第3話「紺屋高尾」で所作指導を担当させていただきました。
ぜひご覧ください!!
あけましておめでとうございます。
どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
今日は新年に入ってから初めてのオフらしいオフ。
そしてそんな日に雪。
なおのこと、家の暖かさが心と身体に染み入るような休日になりました。
窓越しに見るお隣の庭。
降り積もる真白の雪の中に、南天でしょうか、紅の可憐な実が存在を主張しています。
健気で可愛い、とも思うし
凛とした強さ、みたいなものも感じます。
どこぞの鳥も雪宿り。
そして窓越しの敵にはいつも強気なこの漢。
新しい年も健やかに、幸せに、佳き一年となりますよう。
先日仕事の打ち合わせで東宝スタジオに行ってきました。
ゲートのところで久々にゴジラくんと再会。
後ろのコンクリート塀のヒビ割れは、ゴジラくんがしっぽを振り回しているうちに出来ちゃったそう。
相変わらず元気そうなゴジラくん、またしばらくよろしくね。
素晴らしい作品の中で、日本舞踊家としての私の立場から、少しでもお役にたてるようにがんばりたいと思っています。
金曜赤坂座での【鐘の岬】、無事終了しました。
ご来場くださった皆様、ありがとうございました!!
まっすぐ立ってます。
肘のところにお買物かごを持たせたい。
このブログの親分(?)でもある【花柳錦翠美ホームページ】をリニューアルし
昨日より公開となりました。
各ページのあちこちに、私自身の考え方や思いをたくさん掲載しています。
使用写真も若干リニューアル。
お稽古場の写真も「教室のご案内」ページに掲載しています。
ぜひご一読ください!!
↓↓
この目に骨抜きにされる😅。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
オリンピックが始まり、連日のメダルラッシュに巷が湧いている。
スケボーでも日本勢の金メダリストが誕生したが
その解説にも注目が集まっているらしい。
「ヤッベ〜」
「パネエ〜」
「ゴン攻め〜」
などなど、およそ公共の放送ではあまり耳にしないイマドキ(?)語録のオンパレードには批判もあるらしいが
私はなぜか微笑ましく感じてしまった。
そう言えば、最近の電車での出来事。
そこそこ混んでる電車のドア付近に、イマドキ言葉で話す10代とおぼしき男子の集団5,6人がたむろしていた。
オバサンとしてはあんまり近づきたくない雰囲気の、(鼻ピアスでもしてそうな?)イマドキ最先端のような軍団だ。
が、停車駅でお腹の大きい妊婦さんが乗り込んできた時
会話の途中だったその男子集団があたりまえのようにごく自然に道を開け
なにげに空いている席をさがすようにあたりを見回したのち
その妊婦さんが無事プライオリティシートを譲ってもらって着席したのを見届けると
また「まじヤッベ〜」だのなんだの、およそオバサンにはついていけないイマドキ言葉の会話に戻っていった。
そのあまりのあたりまえさに
オバサンとしては、男子達全員のおしゃれな頭をくしゃくしゃに撫でてあげたくなった。
死ぬほど気味悪がられるだろうから(というか通報される)もちろん気持ちだけだが。
電車を降りてからもなんだかずっと清々しく
なによりの暑中見舞いのようだった。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
薔薇の専門店【ROSE GALLERY】の薔薇をいただいた。
花の生け方などまったくわかってない私がそのへんにある花瓶に投げ入れただけなのに
一輪だけで圧倒的な存在感。
かっこいいなぁ…と思う。
最近の我が家の玄関スペースを飾ったのは、撫子、一重のトルコ桔梗などなど。
撫でていとおしみたくなるくらい可愛い佇まいだから「撫子」、とはよく言ったもので
草花ゆえの素朴でひたむきな可憐さは
(こんな植物音痴の私でも)思わず「よしよし」としたくなってしまう。
そして濃厚で、貴婦人のようないつもの佇まいとはうってかわって
すっきりと一重咲きのトルコ桔梗。
名前の由来になった日本の桔梗にもっとも近いだろうか。
凛として潔い感じが和花のようにも見える。
などと、今さらのようないわれや、めずらしくもない形容詞をあれこれ使って説明し、分析し、称賛し
ひとり悦に浸っているのは私(人間)だけで
花はただただひたすらに咲いているだけなんだろうなぁ
だから心惹かれるんだろうなぁ
などとも思う。
槇原敬之さんの「世界に一つだけの花」の歌詞をしみじみ読み返してしまった。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
見返り美男。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
北品川駅は京浜急行の駅の中でもっとも乗降客が少なく
人目につきにくいことから、特殊詐欺のお金の受け渡し場所として、犯人側から指定されることが多いそうな。
そこでその防止策として、北品川駅に注意喚起のポスターがお目見えしたのだが
そのポスターが「おもしろい!」ということで話題になっている。
その文言が
「多額の現金をお持ちで、息子さんやお孫さんと、北品川駅でお待ち合わせのお客様!!伝言がございますので、駅事務室へお越しいただき、駅係員にお声掛けください!」
というもの。
なるほど!!
「気をつけて」ではスルーしてしまいそうだが
「伝言があるから」と言われれば、ほぼ確実に立ち止まるように思う。
そういえば動物園の看板の話。
ライオンや虎などが展示されている檻の前では
見物のお客様にむけて
「危険ですから手を入れないでください」という看板をよく見かける。
が、この類の看板が、大阪あたりでは若干様相が変わるそうな。
看板の文言はひと言
「噛みます」。
間違っても手を入れようとは思わない。
無駄なく、確実に意図を具現化させる。
一発必中、の文言に脱帽してしまった。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
昨夜の大雨が嘘のように上がったピーカンの某地で
今日はドラマの所作指導のお仕事です。
放映日など決まりましたらまたこちらのブログでもお知らせしますので、ぜひご覧ください。
撮影場所の庭に「泰山木」という木が植わっていました。
木蓮に似た花が、私の手のひら以上の大きさ。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
以前も書いたが、私は1年365日夢を見る。
フルカラー、五感付き。
なのでいつも夢の中で一人生(ひとじんせい)生きているかのようで
朝目覚めた時は、だいたい心身ともに疲れている(ぐったりか、心地よくか、はともかく)。
物心ついた時からずっとそうなので
のちに世の中には夢を見ない、または見ても覚えていない人がいると知り、心底驚いてしまった。
私は小さい頃(も)、自分が所属するコミュニティーの情報収集にアンテナを張れるような鋭敏なタイプではなく
ただひたすら自分の世界にぼ〜っとい(られ)るような子供だった。
何かコトを始めると、少なくともなにがしかの結果や完成形を見るまでとにかく黙々とやり続け
それを特に苦とも思わず
それなりに自分の世界を楽しんでいたように思う。
ただ、その有益性の有無にについてはまったく考えが及ばないので
たいていはどうでもいいようなくだらないことばかりではあった。
そんなおバカな子供にも、長ずるにつれて少しずつ知恵と社会性が備わり
入れ替わるようにして「自分の世界で黙々と」というのはなりをひそめていった。
良くも悪くもそれが大人になるということだったのだろう、と思う。
が、最近、もしあのまま、使い回しの知恵や社会性で押しならされるれることなく成長していたら、どうなっていたのかな…などと妄想したりする。
まあ、私のことだからほぼ間違いなくただのハタ迷惑な大人にしかならなかっただろうが
「ひとんちはどうなのか」「人様はどうしているのか」など、指の先ほども思いを巡らすことのないバランスの悪さ、というのは
極めればときにとんでもない独自性や壮大なパワーを生み出す才能となりえるのではないか、とも思う。
極めきれない凡庸さゆえの今の自分なのだが
確実に残りの人生のほうが少なくなってきた今
そもそも自分のものさしでは測りえないだろう人様の価値観に対して
もっと無頓着でもいいのかなぁ、などと思ったりもする。
これ以上無頓着になられては迷惑千万、という身近な声が聞こえてきそうな考えではあるが…。
ところで梅雨。
私は出かける時にさしていた傘を、雨がやんだ帰宅時に無事持って帰れたためしがほとんどない。
まったくもってお恥ずかしい話だが
どうしたら傘の記憶を晴れた帰宅時まで持続できるのか
人様はどうしているのか
不思議でならない雨の季節。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
「マンハッタナーズ」というネコのイラストでお馴染み、ニューヨーク在住のイラストレーター・久下貴史さんのカレンダーを毎年利用している。
随分前の話になるが、久下さんの帰国中に某書店でサイン会が開催されることになった。
そちら系のイベントにはまったくベクトルのない私だったが
飼い猫の写真を持参すると、その猫のイラストも描いてくれる、という企画に惹かれ
当時飼っていた猫・ハチくんの写真をにぎりしめ
私にしては珍しく(というか初めて)イベント会場に出かけていった。
ところがそういうイベントに慣れてない者のあさはかさ、開催時間に合わせて出向いたら
先着〇〇名様で、とっくに締め切られてしまっていた。
人気のイラストレーターなのだからちょっと考えればわかりそうなものなのたが
自分のアホさ加減に呆然と立ち尽くしていると
そんなに広くないサイン会場の奥から、久下さんとファンの方の会話が聞こえてきた。
久下さんがお客様の話にニコニコ顔でうなずきながら、一枚一枚その方の猫の絵を描いてさしあげている。
特にパーテーションとかで区切られてもいなかったので
サイン会参加は無理でも、久下さんの描く絵は割と近くで見ることができた。
するとどの絵もあまりに可愛くて可愛くて
そしてそれぞれのファンの方とその飼い猫くんとのエピソードも、ちゃんと絵のどこかに反映されていて
もう参加とかできなくてもいいから、そこでずーっと久下さんの描く絵を見ていたくなってしまった。
そんな私の(たぶん客観的にはちょっとヤバい)様子を見ていた係のおじさんがコソッと話しかけてきて
「今だったら最後尾に並んじゃっても大丈夫だから」と(誠にズルくありがたい)指南をしてくれた。
私は即あたりまえのような顔をして列のいちばん後ろについたのだが
ズルくて優しいおじさんは、それを見て見ないふりをしてくれた。
そんなおじさんの粋な(?)はからいがあって、めでたくサイン会の最後の客として久下さんの前に座った私は
持参した写真を見てもらいながら、ハチくんの生い立ち(生まれたてホヤホヤで兄弟3匹と一緒にビニール袋に入れられ、母親の胎盤ごと捨てられていたこと)や、うちに来ることになった経緯を話すと
久下さんはハチくんの絵を描きながら「ハチくんは幸せになれたね」とおっしゃってくださった。
「はい」とシンプルに応えればいいものを
その時なぜか私の口をついて出たのは「私が幸せ!」という言葉だった。
久下さんは一瞬「あ!」という表情を浮かべたあと、クスクスっと笑って
ハチくんとその横で幸せそうに笑っている私の絵を仕上げてくださった。
私は今でもたまにこの時の自分を思い出す。
今の銀次くんもそうだが、ハチくんがうちに来たことで少しでも幸せを感じてくれていたとしたら
私にとってこんな嬉しいことはない。
銀次くんやハチくんがあられもない姿で無防備に爆睡していたりすると
心がふんわりときれいな丸にふくらんでいくような感覚がわきあがってくる。
苦境の猫を預かって幸せにして「あげて」いるつもりが
実は幸せをもらっているのはいつもいつも飼い主の私のほうなんだな、と思う。
まだ日本舞踊家としては駆け出しの頃
亡くなられた尊敬するある先生にお稽古で言っていただいたことを思い出す。
「あなたが舞台の上で見てないものは、お客様の誰も見ることはできない。あなたが舞台の上で信じないことは、お客様の誰も信じない。迷ってはダメ、もっと信じなさい、もっと愛しなさい。でないとあなたの踊りがかわいそうです。あなたの踊りが泣いているのが私には見えます。」
当時わかったようでいてどこかぼんやりと受け止めていたように思うが
時が経って
やっとこの言葉の意味が腑に落ちるようになってきた。
上手い・下手の問題はともかく
自分なりに、ぎりぎりまで魂を注ぐようにして向きあえた踊りなら
きっと踊りそのものが踊られたがるはず。
少なくとも「下手くそだけど、まぁ付き合ってやるか」くらいは思ってくれるだろう。
踊られたがっている踊りの心を感じられたなら
舞踊家としてこんなに幸せなことはない。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
銀次くんはチビッコの頃、何度かエリザベスカラーのお世話になることがあったのですが
感触や重さのせいか、ご多分に漏れずやっぱりあまり得意ではありませんでした。
そんな時ネコ飼い仲間に聞いた、エリザベスカラーが苦手な子のための「どん兵衛カラー」。
こちらのほうが銀次くんにとっては快適らしく
傷が癒えるまでの間、我が家では銀次くんアラタメどん兵衛くんが走り回っていました。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて
ある二通りの生き方のことを考えてみる。
同じ志しをもって一生を歩き始めるとして
少なくとも同じスタートラインに立てたものどおし
きっとお互いあふれんばかりの才能も若さも、ほぼ等しく持ち合わせている。
が、何年も何十年も歩き続けて
ある日ふと気がつくと
同じ道を歩いていたはずなのにいつの間にかまるで別の道になっていて
お互いの背中や顔を感じながら歩いていたころに戻りたくても戻れないくらい遠くまで来ている。
先んじている、遅れている、の差ではなく
全く異なった景色を見ることになる差。
この差は何か。
始まりはたぶんほんのちょっとの心構えの違いだったのではないかと思ったりする。
何かを大切に思う気持ち
何かに真摯に向き合う気持ち
何かに誠実に応える気持ち
そんな心構えがほんの少し相手より深いか浅いか。
始まりのそのほんの少しの心構えの差が
歩き続けるなかで些細な選択の違いを生み
ちょっとずつちょっとずつ道が別れていく。
当然のことながら、道が別れればそこで出会う人も、影響をうけるものも違ってくる。
選択や決断の違いはより顕著になり
加速度的にどんどん道が開いていって
最後に到達するゴールが随分異なったものになってしまう。
どのゴールがいい、悪いの問題ではないが
ただ、歳をとればとるほど、つまり歩いた距離が長ければ長いほど
一分一秒をどんな心構えで過ごしてきたかの「積み重ね」は
想像以上の結果を呼ぶものだ、とつくづく思う。
さて、自分はどんな心構えをどれくらい持ち合わせて過ごしているのか。
基本ズボラな我が身を振り返り
改めて、日々の「積み重ね」の凄さや怖さを思う。
※アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)」にて